良理道具。
私の父は東京の浅草生まれ、浅草育ち。
祖父母が亡くなり父の実家がなくなってしまうまでは、浅草はよく出かけていた場所の一つ。
上野動物園や上野公園、浅草寺など、あちらこちら小さい時にはよく連れていてもらった。
地元の鳥越神社の祭りには、父が汗だくで法被姿で神輿を担ぐ姿を祖父母の家の2階から見ていた。
小さい頃の思い出は、映画の一場面のように端的。
でも、たくさんのシーンがその匂いや温度と一緒に頭に浮かぶ。
よく連れていってもらった上野動物園は目をつぶっても歩けるけれど、子供の時はもっともっと広いと思っていた。
今はなくなってしまった東園と西園を繋いでいたモノレールにいつも乗せてもらっていたが、大人になって歩いてみたら大した距離ではなかった。
わざわざ並んで乗ることもなかった。
私の祖母は神田の生まれで、歯に衣着せぬきりりとした女性だった。
私が幼い頃は上野公園を上野駅の方に抜けると、日本軍の軍服を着て半分になった脚に包帯を巻いた兵隊さんが物乞いをしている姿をよく見かけた。
小さな私にとっては可哀想で少し怖い存在だったが、祖母は相手にしてはいけないとピシャリと言った。
帰る時間が来れば半分になっていた脚の包帯を解いて、両脚でしっかり歩いて帰るんだから、と。その姿をだいぶ後になって、本当に見かけた。
上野で有名なアメ横でも、物は買わないようにとも言われていた。
戦後の闇市がルーツの商店街で、当時は質が良くないものもたくさん売られていたよう。
4人の子供を必死で育てていた祖母にとっては、その良くない印象がいつまでも拭えなかったのだろう。
その時も私は舶来物のお菓子を、そっと父に買ってもらっていた。
10代の頃のアメカジ全盛時代には、足繁く通って楽しく買い物もしていた。
もはや戦後ではないのだから。
ある日、その祖母と合羽橋の道具街に出かけた。
今ほど一般の人向けのお店があまりない頃。
菊屋橋の「ニイミ」に有名なジャンボコックができたばかりの頃だったろうか。
あれを見に行ったのかしら?
あらゆる大きさのプロ向けの料理道具、包丁、お店や旅館で見る業務用の食器。
当時大好きだったお子さまランチのプレートや、見たことない大きさのお鍋やしゃもじがあったり、ワクワクする楽しい場所だった。
その後も仏壇街の先には、祖父母のお墓のあるお寺があったので、時には合羽橋にも両親と出かけていた。
ワクワクは歳とともにだんだん薄れていき、しばらく足は遠のいていたけれど、大人になってまた出かけるようになった。
変わらないお店もあったけれど、一般の人や外国人の方が増えて来ていた。
父の従姉妹が嫁いだという道具店も、もうどこなのかわからない。
家庭を持ち子供ができて料理にも力を入れ始めると、欲しいものがたくさんできた。
あれやこれやと手にとってお店を巡っていたら、時間がすぐに過ぎてしまう。
美味しい老舗のパン屋さんや昭和の風情漂う洋菓子屋さん、おしゃれなカフェ、全てが私にはお気に入りの場所になっていった。
すっかり料理好きになった私が出会った大好きなお店が「釜浅商店」さん。
明治41年創業の釜、包丁、鍋、フライパンなどなどを多岐に渡り扱う老舗の商店。
4代目のご主人がお店のリニューアルを大成功させ、スタイリッシュなお店に。
パリにもお店があり、本も出されていると言うのだから驚いてしまう。
日本、いや世界の名だたる料理人たちが、この商店の道具を使っている。
昔から変わらず日本中の職人たちが作る、良い理の道具を紹介しているので、「良理道具」と言う商品コンセプトを掲げている。
使ってみるとプロの調理人でなくとも、私のような一般人でも納得。
使いやすく計算されていて、美しく、扱いやすい。
包丁、ナイフ、まな板、鉄釜、おひつ、すき焼き鍋、たわし、おろし金などなど上げていったらキリがないけれど、私の持っている道具たちにもそれぞれ理がある。
包丁をさらに使いやすくするためのまな板。
鉄釜で炊いたご飯をもっと美味しくする木の香りのおひつ。
鉄鍋類にはよく汚れが落ちて品質を落とさない専用のたわし。
手際良く料理ができて、美しくおいしくなり、後片付けさえもスムーズだ。
それに適した道具は、作業を楽に楽しくさせてくれる。
まだまだ欲しいものはあるのだけれど、今はできたばかりの庭のデッキで、しっぽり大人のBBQをするための七輪を狙っている。
包丁もそろそろ研ぎに行きたいし、あー合羽橋が私を呼んでいる。
この続きは、また次回。
sea you soon.
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