On the road〜海の街で

海街に家を建てて移り住むまでのよもやまばなし。から始まった、海街暮らしと日々のあれこれ

ものさし。

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オーストラリアへ移住した友人の話。

あの頃は東日本大地震の後で、原発の不安から東京から西日本や九州、沖縄、はたまた海外へと子供を連れて移住する家族が私の周りでも少なくなかった。

地方への移住はもとより、海外への移住は子供たちの教育環境を考えてもハードルは高いものだろう。

それよりもこれからどうなるか分からない原発という不安要素が、多くの子育て世代の親たちに高いハードルを飛び越えさせた。

 

私もその世代の一人だった。

子供はまだ小学校低学年で、震災の当日も大きな揺れがよほど怖かったのか、大泣きしながら教室から校庭へと避難してきていた。

揺れの後の不安は福島の原発。大阪の友人を頼って子供と新幹線に飛び乗ったその日に水素爆発が起きた。

いつもと何も変わらないのんびりした大阪の街で、一体いつ東京に戻ったら良いのか途方に暮れていた。

しばらくは春休みということもあり、家族旅行に出かけ東京を離れた。子供が怖い思いをしたことを忘れさせるために、とにかく笑顔にさせることに一生懸命になっていた。私もやはり少し動揺していたのだろう。

 

友人が移住を決めたのはそれから少し後のことだった。候補のオーストラリアの街に子供を連れて行き、あっさり決断して帰国した。話を聞けば彼女は言った。

「歩いているだけで幸せな気分になった。」

これは、先に移住していた彼女の友人も言っていたことだそうで、まさにそれを体感したという。こんなに幸せな気分になるなら、大丈夫と思えたと。

その時はそんな事あるのね〜と思いながら、彼女と彼女の家族がかの地で楽しく暮らせることを強く祈りながら送り出した。今も彼女たちは同じ場所でたくましく生活している。きっと幸せを感じながら。

 

私達は結局、そのまま東京で暮らしている。原発への不安は今でもみんなが感じている。

選挙になれば、必ず原発問題が取り出される。何も解決できていないのが現実。

子供の教育、毎日の暮らし、夫の仕事や両親のこと、どれもが私達に高いハードルを越えさせなかった。その問題に耳を傾けながらも、ぼんやりとした不安を抱えたまま普通に暮らしてきた。

 

友人の「幸せな気分」は移住のものさしとなって、のちのち私の心に響いてくることになるのだけれど、その話はまた次回。

sea you soon